合格志向の自己認識で勉強できる止観選行日記

「マインドマップ資格試験勉強法」改
「NLP資格試験勉強法」公式ブログ版2026年2月27日号
本誌はNLPの観点から合格を目指せる勉強法を提案します。

合格者は自らがこれ自身になれる勉強を行えた。
NLPはその人たちに共通する思考と行動にも注目する。
本誌は合格を目指す貴方にその神髄を提案して合格を支援します。

合格者の自己認識から今の自分に質問してどうでしたか

こんにちは近藤哲生です。前回のテーマは合格者の自己認識から今ある自分への問いかけ。目的は根性や気合い、あるいは「スマホ弄りに耽るより真面目に勉強しろよ」と精神論で勉強に集中しない自分を正さない。そのことで自らを律することができれば、受験生はだれも苦労はしない。そうするのでなくて視点を変える。

人は「私は○○である」とした自己認識を堅持したい。仮に「全力で合格を目指した人だ」と自己認識を有するならば、試験勉強でも手抜きをしない。全力に反することをしたとするとその自分に虚偽を働く結果となる。自己認識と自らの行為の乖離に当然ながら苦しむ。その不快を避けるように自己認識を堅持できる行動を好む。

その心理的な仕組みの活用は、未来に合格者である自己認識から今に例えば「チョット息抜きよ」として気がつけば1時間もスマホで遊んでいる自分を叱るのでなく「この秋に合格者であるのに、今スマホ弄りで貴重な勉強時間を浪費するのって有益かな」と冷静に問いかける。自己認識的なセルフコーチングをするのだった。

ここで「後手の問いかけより良い手がないの」と異論があるだろう。勿論その通りだ。そうするよりも対処すべき事象を未然に防ぐのが大人ってモノだ。だとすれば自身が下手を打たないように「この秋に合格者である私はどんな環境で勉強したの」と自問して自身に勉強を阻害するスマホを排除させたり環境作りを事前にさせたい。

一方で次の様な呻吟をも講座やコーチングで拝聴してきた。
「合格者的な勉強をしているかが心配」
「合格者の自己認識で勉強を改善できているか疑問」
魚が水に気づけない事に似て人もまた自分自身に気づき難い。
さて合格志向の自己認識を堅持することはどうすればできるのか。

合格志向の自己認識を高める止観選行日記をつける

その答えが止観選行日記。止観は勉強や1日が終わる時それに関わった思考、感情や行為を流さずに止まって観る。選行は「次にどうするのが合格志向の自己認識から有用か」と選んで行う。その選択した結果を行えるように、その時その日に日記に書き記す。これがメタ認知的を基盤とした行動の選択と計画のジャーナルだ。

その止観選行日記は週末に止観選行の週報として別に書き記す。その日記が作った結果の1週間分を止まって観て何を選んで次週にどう行うかを記す。言わばメタ認知的な日記のメタ認知的な週末日記つまり週報とする。この週報の要諦は、毎日の止観選行これ自体を止観つまりメタ認知することだ。メタ認知を更にメタ認知する。

メタ認知を更にメタ認知すると聞いて「何で面倒臭いことをするのよ」と嫌だろうか。確かに、実に面倒かもしれない。慣れないうちは止観だけでも七面倒なのだから。ましてや日々の止観選行これ自体を週末に止観選行する訳からして「チョウ訳ワカメ」と昭和的ギャグを噛ませたくもなろう。だがチョット待って欲しい。

AIの能力更新が相次ぐこの時流、誰でもできる事を誰でも以上にできるAIが人に取って替わる。AIができないことを我々ができるようになることが生存戦略的に喫緊の課題になるのも時間の問題だ。一方、AIは構造と膨大なリソースの必要性からメタ認知が当分できない。人はメタ認知と超メタ認知を体得するのが得策だ。

受験勉強に関する止観選行日記とこの週報の実践はAI時代の生存戦略となり、「私はメタ認知のメタ認知までできる人である」と言える自己認識の構築も含意する。これの意図を果たせるならば止観選行日記に立脚して取得できた資格は「AI時代に唯の紙」とならずAI時代に貴重なメタ認知的能力の証とできるからだ。

止観選行日記の書き方

これはまず1行から始めよう。例えば「今日は法規の過去問が計画していた30問のうち全問解けた」と事実を端的に書く。アレコレと修飾めいた言葉は不要。これを書こうとするとこれに労力を費やす、下手をすると書くことがメタ認知を促す方法でなく、書くことが目的化して時に時間を浪費するからだ。書くべきは事実だ。

加えて、その事実を自らがどのように感じるかを、これまた「思い通りにできて嬉しい」と素直に書く。仮に1日で達成できた過去問解答がそれだけの数量であったとしても、できた事実を端的に認める。これは、ゲームを一つクリアする事に似て、意欲をかき立てる。これが「やる気を出そう」としなくてもできる意欲亢進だ。

更に、「たった30問が解答できたことで満足していてはいけない」などと妙な反省や叱咤激励を書く必要はない。勿論、それを書いて「反省したらやる気満々になってきた」と自虐的な快感を覚えるのであればその行為を止めはしない。だが人の多くはそれをして肯定的な感覚、例えば意欲旺盛になれることは少ないからだ。

但し、過去問の解き方に関して、「解き方が解って正解できたのでなく、何となく感覚で正解できた問題は解答解説を読解し直して理解の下で解法を暗記しよう」と反省で無く改善点を書くことはお勧めする。止観選行の目的は自らの行い・解法の過程を止まって観て次の解答はどうするか選行することであるのだから。

止観選行週報の実践法とは

これは、日々の止観選行日記を俯瞰的に止まって観て、その認知から選びたい行為を、次週の勉強指針として書く。それを俯瞰的に止まって観ては、毎日の止観選行の内容以上にこの仕方・傾向自体に着目する。つまり止観の仕方、例えば解法の覚え方だけに注目するのでなく、解法の理解度にも注目していたか否かも俯瞰する。

つまり、日々の止観の仕方これに関して止観するのが週報で行いたい止観であり、メタ認知のメタ認知つまり超メタ認知である。言わば止観選行日誌とこの週報とはマトリョーシカのように入れ子で構造を形成する。同じ止観をするにしても、週報のメタ認知は1階層上位から日々の止観選行をメタ止観する。

日々の止観選行は学びの為に自らが学ぶ方法、学び方を学ぶ技法だ。よって週報で日々の止観選行を止観選行する行為は、学び方の学び方を学ぶベイトソンの学習階梯でいえば学習Ⅲに該当する。繰りかえすがこれを行う習慣は日々のそして毎週の結果として毎月の学習効果に肯定的な影響をもたらす。学び方を変革できるからだ。

止観選行週報の事例

例えば建築法規の過去問解答に関する平日の止観選行を止観したとする。その結果、「法規の緩和規定まで確認するのが論理的に正解するのに大事」とした記述が散見されたとするならば、「何をどのようにして、私は同じ思考の繰り返しをしたのか」「同じ繰り返しをしたのはどのような思考の偏りがあるのか」と自問する。

その自問は前号でご案内したように今秋に合格者である自身を招喚することがお勧めできる。上記の自問に「それが解れば苦労はしない」等と腐る自身を今秋に合格者である自己認識は「そう居直ることで何が欲しいの」とも見事に問い正してくれるかもしれない。いずれにしても今秋にある自己認識は間違いなく今に有用だろう。

その自己認識は先のような思考の偏りを自己修正した結果として合格水準を満たす得点をしていたのであるのだから。よって、「今週、自分がハマってきた解き方や考え方の癖って合格した自身からどう観える」あるいは「自分が役に立っていないのに認めずにやりがちな考え方って何だろうか」と尋ねることも有用だ。

そうすると今秋に合格者である自己認識は、例えば「うん、事例の正誤を判断する根拠となる法文の読み方を『他に確認すべき法文があるとしたら何かな』と自問して自己修正するより大きなフレームが不足かもね」と的確な閃きを与えてくれるかもしれない。そうでなくても「何か抜かしていないかな」とズバリに尋ねるだろう。

或いは単純明快に「今週の止観選行の仕方って合格するのに役立ってる?」と自問する。もっと直裁に「今週、解答の正答率ってどうよ」と直接的に計れる形で自問することも有用だ。このように自問の仕方つまり認知の仕方これ自体に変化を求めるこれ自体がメタ認知であり、そのこと自体を問うのが超メタ認知であるからだ。

そうでなくても、平日の止観選行を俯瞰すると何をどうしたいか何となくでも解ったつもりで、次週は何をどうすると具体的な行動のレベルで書き記そう。繰りかえすが、決して「キチンと真面目に」などと何をどうすべきか不明な精神論を書き記してはダメだ。それらは勉強を起動しない単なる気合いだよりの根性論だから。

止観選行ってアレのこと?!

以上をどう考えただろうか。例えば「それってメタ認知ベースのPDCAだ」かもしれない。仮にそうであるならば誠にご賢察だ。英字表記にしろ漢字表記にしろ、自らの行動とこの結果を確認して改善をする。日々の止観選行・PDCAが翌日の勉強を改善する習慣であり毎週末の止観選行・PDCAが翌週の以下同文。即ち自己変革の習慣だ。

繰りかえすが、1日や2日、あるいは一週間や二週間、止観選行を行った結果、「やっても別に何の変化がないのって何故」となっても投げ出さないのが得策だ。その短期間でも認め得る僅かな成果を「何の変化もない」とする自己認知これ自体が止観の対象であるにも拘わらずそれを行わない認知の偏り自体があるからだ。

一方で、「別に変化がない」様子が事実であると認知できたならば、これまた「変化がない結果をオレ・アタシはどのようにして維持できたの」と自分を止まって観て、自らがなし得た見事な現状維持に関する例えば「予備校が言うとおりにやってれば良いんじゃね」とする思考や行動をメタ認知することも推奨する。

であるならば「小難しいことってやっても無駄」と悟りきったことをいう暇があったら、そう言う自らを止観選行する対象として日々と週末の止観選行記録の対象として採取してはいかがだろうか。人はフラクタル、一部の行動に全てをウッカリ反映するから、その言動を通しても自らの試験勉強を止観選行できるのだ。

いずれの方法で止観選行をするにしても行動とこれの集積である習慣そしてこれらの成果である特に過去問解答の正答率に上昇を認めることができなければ、止観選行つまりメタ認知を通したPDCAの仕方に何らかの課題があることは自覚したい。結果つまり合格は正答率を高める勉強というDoがもたらすのだから。

編集後記:AIとメタ認知、自己認識そして責任

2か月程前から、googl AI Pro を介して本誌の挿絵をNano Banana Pro で作成してきた。当初、例えば6枚の挿絵を作るに際して、「AIにお任せの一発完成で楽ちん」を筆者は期待した。その期待を満たすべくAIの助けを借りながら試行錯誤の末にpromptも作成した。「わーい、一発で好みの挿絵ができる」とほくそ笑んだ。

そのpromptつまり作画指示をチャット欄に投入した。例えば6枚の挿絵を個別に出力できる期待は、6画像は1つの大きな画面の六分割の1つ1つに割り当てられ1つの画像に替わり果てて使い物にならなかった。そう、あっけなく、期待はこれの別称と言われる失望に墜ちた。早速、AIにpromptの改善を提案させた。

すると、その結果として前号まで、AIは期待通りに個別の画像を例えば5枚であれば、それを個別に生成した。ところが、今号の挿絵を作るに当たり前回に機能したpromptをチャット欄に投じるも、待てど暮らせど「Nano Banana Proを呼び出しています」と表示が続くだけ。また、AIにpromptの改善を求めた。

その改善promptは「1枚ずつ画像を作ることでAIの負担を軽減して確実に指定された枚数の画像を生成できます」とAIが自信満々に提示したもの。だが、これをチャット欄に同じた結果は、1枚こっきりの画像生成で終わる。残りの画像が生成されない。 再度AIにpromptの改善を求めた。その改善は以下同文繰り返し。

結局、1画面毎のプロンプトを人手で投じて画像を得る。このAI時代にあってよ、その繰り返しを六回することで今回の必要画像を生成した。googl AI Pro は筆者の年齢や朝食の好みなど、教えもしない事を各セッションから記憶してきた。一方で自ら生成したpromptの内容もその結果も同じ結果が続いた事実を認知もしない。

勿論、googl AI Pro は自らが関わり滞った画像生成の過程を認知しない事実も認知しない。「今度は「私」が1枚作って見ましょうか」と宣う。「「私」ってオメーだよ」と筆者はキレかかった。ハタと我に返った。AIはメタ認知ができない。メタ・メタ認知もできない。ましてや自己認識も有さない、そう再認識した。

未だむしろ当分、googl AI Pro だけでないAI全般は、メタ認識も有さず結果、自己認識も有することができない。「それは私がやりました」と自己認識ができない。よって自らの出力に責任を果たすこともできない。その責任を持てる主体はメタ認知と自己認識とを堅持する人だ。諸君の健闘を祈る。